國體の本義 前田慶一 現代語訳
上巻
國體(国体) 國體の本義(国体の本義)
5.ワシントンやロンドンでの会議
こういう彼等の策謀は、世界大戦後三年目の大正十年に、ワシントンで開かれた軍備縮小の会議にあらわれた。此の会議で、五・五・三の比率を定められた。それはアメリカとイギリスがそれぞれ主力艦五十万トンを持つとすれば、日本は三十万トンしか持つことができないというのであって、日本は海軍兵力で米英より劣った低いところに釘付けにされたのである。
その後、昭和五年には、ロンドン会議が開かれ、その時またしても、アメリカとイギリスは示し合わせて、今度は日本の補助艦の総トン数を米英の七割足らずに釘付けにした。日本は世界の平和を望んでいたからこそ軍備縮小の相談にも応じたのであるが、アメリカとイギリスは結局は、平和の美名に隠れて日本の発展を抑えようとしたのである。
ワシントン会議の際にはまた、太平洋の島のなかで、ハワイやシンガポールにはいくらでも軍備ができるようにしておきながら、他の島々には新しく軍備ができないようにしたり、あるいは、太平洋の島々の安全保障に名を借りて、我が国防を脅かすような条約(四国条約)を取り決めた(外交戦)。
かようにアメリカやイギリスは、自分たちに都合のよい手段によって、日本の発展を妨げることに努めた。
また一方では、個人主義や民主主義や社会主義など、とうてい我が国の国柄(國體)と相容れない思想を盛んに送り込んだり、浮ついた薄っぺらな風俗を日本の国内に流行させて、勤勉で質素な日本人を墮落させようとはかった(思想戦)。
さらにアメリカは日本人の排斥を行って、大正十三年には、日本の移民を全く禁止した。
イギリスはイギリスで、他の国を誘って、日本の商品に高い税をかけ、輸入の制限も行って、日本の商人を圧迫したりした(経済戦)。
そうして、イギリスなどの勢力を何とかして追い払おうとしていた支那まで、とうとううまく丸め込んで、日本排斥運動に引き入れ、大陸から日本商品を追い出し、裏からは自分たちの商品を売り込もうという一石二鳥の手をも用いた。
6.満州事変にも策謀
支那は、このような米英のやり方と妥協していった。自分たちがこれまでイギリスやそのほかにどんな目にあわされたかを忘れ、将来もまたどんな目にあうであろうか深く考えもせず、米英と結び、その手先となって日本を排斥することを企てた。日清戦争・日露戦争このかた、大陸に築いてきた日本の正しい地位を、支那は米英の尻押しによって踏みにじり、大陸から引き払わせようとした。満州事変はこうして引き起こされたのである。
昭和六年九月、満州事変が起こると、イギリスは国際連盟を動かして日本を抑えにかかった。アメリカも、国際連盟に加入していなかったのに、その総会に特別の使者を送ってイギリスと力を合わせた。
大東亜戦争勃発の日から、ちょうど九年前の昭和七年十二月八日、松岡代表は、我が国の東亜における当然の地位を正々堂々と主張したが、国際連盟は支那をおだて、正当な日本の主張には全く耳を傾けず、満州国の成立を認めようとしなかった。これで米英が音頭をとる国際連盟の正体は明らかとなった。昭和八年三月、我が国は潔く国際連盟を脱退した。
7.支那事変ではいよいよ盛んに策謀
こういう米英のやり方に支那はますますつけ上がり、そのうえ共産党の巧妙な抗日運動に乗せられて、昭和十二年七月七日、盧溝橋畔における支那兵の日本軍隊に対する挑戦となり、やがて大きな支那事変となった。それから米英の日本に対する意地悪い仕打ちの数々は、国民の忘れようとしても忘れることのできないばかりであった。
東亜の国々が親子兄弟のよしみを結んで一致協力しあい、共に栄えて行くような平和な正しい状態を打ち立ててること、すなわち東亜新秩序の建設という大事業に日本が国を挙げて努力しているのに、米英は蒋介石を助けて事変を長引かせようと、ことごとくに日本の努力に邪魔をした。
そうして、これで日本は弱まっていく一方だし、支那もまた一層動きのとれぬ苦しい状態となるに相違なく、いよいよアジアの地を思う存分に支配できるとほくそ笑んでいたのである。
8.日本を包囲しようとした
ヨーロッパでは、昭和十四年秋からドイツはイギリスと戦争を始め、翌年にはイタリアもドイツ側につき参戦した。日本は世界に正しい平和をもたらそうとする志を同じくする立場から、独・伊両国と三国条約を結んだ。
これに対してアメリカは、イギリスや蒋介石軍の一大兵器工場となって、彼等にはあらゆる物資を送って援助した。そうして、日米間の通商条約を勝手に破り捨て、日本には一滴の石油も一片のくず鉄も輸出しないようにしたり(通商航海条約破棄)、その上、イギリスやオランダなどと示し合わせ、それぞれの本国や領土にあった日本の資産を自由に動かせないようにして、日本が経済的にどうにもならないようにしてしまった(資産凍結令)。
さらにイギリスや重慶政権や蘭印(オランダ領東インド)と結んで、いわゆるA(アメリカ)・B(イギリス)・C(支那)・D(オランダ)包囲陣を固め、北の方ではソ連に誘いをかけて、今にも日本を踏み潰すぞと言わんばかりのかけ声で、我が国を脅かしてきた。
こうした動きのうちにありながらも、我が国はアメリカと話し合って、穏やかに事をおさめようとした。そのために野村大使は骨身を砕く努力を重ね、後には、来栖大使も特派されて交渉したが、あくまで日本を見くびった大統領ルーズベルトは、我が国の立場を全く無視し、過去長い間の尊い努力を水の泡にさせるような、無法な要求を繰り返した。
最後には、支那および仏印(フランス領インドシナ)から撤兵せよ、南京の国民政府とは縁を切って蒋介石と手を握れ、日・独・伊三国条約は破棄せよ、と主張して、とうてい我が国が立って行けないような勝手きわまる話を押し通そうとした。
9.日本ついに立つ
これでは国民の誰一人憤慨しないものは無いはずである。靖国神社に神鎮まります多くの英霊のことを思うだけでも、承知できる相談ではない。
アメリカがイギリスと組んで、それほど日本に我慢のできない要求をして戦争を挑むなら、よし、いさぎよく一戦しよう。今こそ正義を貫く日本の力がどんなものであるかを思い知らせてやろう。国民の一人一人だれもかも、こういう抑えきれない気持ちとなった。
このとき、畏くも米国及び英国に対する宣戦の大詔は渙発せられたのである。
第一章 終
○真珠湾攻撃
戦中戦後にかけ連合国側の非難は、真珠湾に対する無警告の攻撃=宣戦布告前の空襲=に集中した感がある。
(中略)なるほど華府(ワシントン)における日本大使館員の怠慢から、翻訳文書の浄書が遅れて、米国務省への通告が、空襲より四十五分遅くなったことは事実である。政府の意志でなかったとしても、手違いにはちがいないが、宣伝されたようなだまし討ちといえるだろうか。
現に米国側では日本の暗号文を残らず解読していて、陸海軍首脳。国務長官から大統領まで、我が通告前に電文全部を知っていたから、もし真珠湾危うし、と判断したら緊急措置がとられたはずである。
開戦当日の午前、国務・陸・海軍の三長官は国務省に会合して、日本軍が南方に進出した場合のことを協議したが、散会前に日本の最後通告に関する十四節は残らず解読されて三長官の前に披露され、午後一時に国務長官まで通達せよという東京の指令まで承知していたのである。
なお、十一月二十六日の、いわゆるハル・ノートが、日米交渉に対する決裂の通告であることは史家の一致するところであり、同国国務長官から、
「私はこれで手を洗った。これからは陸軍と海軍の手に渡すのだ。」
と述べたことでも明らかであり、その日付でハワイの陸海軍指揮官に警報が発せられている。
もし真珠湾空襲が意外であったとすれば、それは日本海軍の「だまし討ち」によるのではなく、米国首脳のまさかハワイまでは来るまい、という油断が原因である。
『太平洋戦史』(集英社 昭和三十七年発行) 帝国海軍少将 高木惣吉
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