國體の本義 前田慶一 現代語訳
上巻
國體(国体) 國體の本義(国体の本義)
日本武尊の尚武
神武天皇が大和に都をお造りになってから後は、天皇の御威光(ごいこう)は、だんだんと周囲に広がっていきましたが、都を遠くはなれた東や西の国々には、悪者どもは、少なからずおり、時々反乱を起こしては、人民をなやましていました。
第十二代景行天皇(けいこうてんのう)の御代(みよ)になって、九州の南に住む熊襲(くまそ)が反乱を起こしたので、天皇は御子の小碓尊(おうすみのみこと)を派遣してこれを討たせようとしました。
尊は、生れつき活発であり、力も強く、派遣されたとき年齢はわづかに十六でしたが、命に従ってただちに九州に向けて出発、到着しました。
熊襲の首領の川上(かわかみ)のたけるは、そうとは知らず、仲間と共に酒を飲んで楽しんでいました。尊は、髪をほどき少女の姿になって、たけるに近づき剣を抜いてその胸を刺しました。
たけるは驚いて「日本一の強きお方かな。これよりは日本武(やまとたける)と名のられよ。」と言って息絶えました。そこで、尊は御名を改めて、めでたく大和にお帰りになりました。
その後、東の国の蝦夷(えぞ)が反乱を起こしたので、天皇は、また尊にこれを征伐させました。尊は熊襲の征伐のためお疲れになっていましたが、天皇の命をうけて、いさんで都を出発し、はじめに伊勢を訪れ皇大神宮(こうたいじんぐう)を参拝し、天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)を戴いて、東国へと向かわれました。
尊が駿河(するが)にお着きになった時、その地の悪者どもが尊をあざむき、鹿狩りをすると言って、尊を野原の中に、誘い出して、四方より草に火をつけ、尊を焼き殺そうとしました。尊は、天叢雲劔を抜き、草をなぎ払ってこれをふせぎました。
悪者どもは、逆に自分たちが放った火に焼かれて全員滅ぼされてしまいました。これより、この剣を草薙劔(くさなぎのつるぎ)と呼ぶことになりました。
尊は、ここから軍を東にお進めになりましたが、蝦夷どもは、全員、尊の勢いに怖れて、弓矢を捨てて降参しました。このようにして、尊は常陸(ひたち)地方に着き、国々を平定して大和にお帰りなさろうとしましたが、途中で病気にかかりお亡くなりになりました。
尊は高貴な御身分でありながら、兵士と共に難儀を忍び、少年の時から西や東に悪者どもを征伐し、少しも身をお休めになることがなく、お亡くなりになりました。しかしながら、その平定の手柄により、都から遠方まで平和となり世の中はよく治まりました。
尊の御子は、後になって天皇の位にお即きになりました。これを第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と申します。


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