國體の本義 前田慶一 現代語訳
上巻
國體(国体) 國體の本義(国体の本義)
聖徳太子の叡智
仁徳天皇から十八代目の天皇を第三十三代推古天皇(すいこてんのう)と申します。天皇は女帝でいらっしゃたので、政治を甥の聖徳太子(しょうとくたいし)にお任せになりました。
太子は、生まれつき、優れて賢くおいでになり、同時に十人の訴えを聞き分けたといわれます。
その上に、朝鮮の学者について教えをうけ、深く学問を修められ、朝鮮・支那の良いところをお取り入れになり、いろいろと新しい政治をおはじめになりました。また、十七条の憲法を定め、官民が心得るべきことをお定めになりました。
太子は、使者を支那(しな)に遣わして国交をおはじめになりました。そのころは、支那は国の勢いが強く、学問なども進歩していましたが、常に高慢な態度をとり、他の国々を属国のように取り扱っていました。しかしながら、太子は、少しもその勢いを恐れることがなく、支那につかわした国書に
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす。つつがなきか。」とお書きになりました。
「東天皇(ヤマトスメラノミコト)が謹んで西皇帝(モロコシノキミ)に問う」という表現
支那の国王は、これを見て、たいそう怒ったのですが、使者を我が国に遣わしてきました。それにより、太子はさらに留学生を支那の国にお送りになり、その後、引き続き両国の間に往来があったため、これまで朝鮮をへて我が国に渡来した学問などは、すぐに支那から直接伝わることになりました。
これより先、太子の祖父である第二十九代欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に、仏教が初めて百済(くだら)から伝来しました。太子は深く仏教を信仰され、多くの寺を建て、また自ら仏教のおしえをお説きになったので、仏教は。大いに国内にひろまり、建築などもいちじるしく進歩しました。
太子のお建てになった寺の中で最も名高いものは、大和の法隆寺(ほうりゅうじ)であり、その建物の主要な部分は、昔のままであるといわれ、わが国で最も古い建物です。
このように、太子は、わが国に多くのよいものを伝え、お広めになりましたが、まだ、天皇の御位にお即きになる前に、お亡くなりになりました。このとき、世の人々は皆、親を失ったかのように嘆き悲しんだということです。


旧一万円札

法隆寺
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