國體の本義 前田慶一 現代語訳
上巻
國體(国体) 國體の本義(国体の本義)
神武天皇の東征
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)より二代を経て、神武天皇(じんむてんのう)の時代にいたるまでは、代々は、日向(ひゅうが)の地で、日本の国を治めようとなさいましたが、東の方には、まだ悪者どもがはびこっていて、大きな騒乱を起こしていました。
天皇はこれを討ち平らげて人々を安心させようと、船団を率いて日向を出発し、大和(やまと)に向かわれました。これを神武天皇御東征といいます。さらに多くの年月をかけて浪速(なにわ)に到着なさいました。
神武天皇は、河内(かわち)より大和に入ろうとなさいましたが、悪者どもの頭領である長髄彦(ながすねひこ)という者の勢力が強く、天皇の軍の進路をはばんで入らせませんでした。
天皇は、お困りになって進路を変えて、紀伊(きい)から大和に進もうとなさいました。そのあたりは、山は高く、谷は深く、道がないところも多かったのですが、天皇はこれをものともせず、飛んでいく烏(からす・八咫烏とされる)を目印にし、兵士をはげまして道を開かせて、ついに大和にお入りになりました。
こののちは、順次、悪者どもを討ち平らげて、ふたたび長髄彦を討とうとなさいました。しかし、長髄彦の手下は、力の限りに戦ったので、天皇の軍は、簡単には勝つことができませんでした。
その時、天がにわかにかき曇って、雹(ひょう)が降りだし、どこから飛んで来たのか金色の鵄(とび)が、天皇のお持ちになっている弓の先にとまり、強い光を放ちました。悪者どもは、目がくらんで戦うことができなくなり天皇の軍に敗北しました、そのときに、長髄彦も殺されました。
やがて、神武天皇は、神殿を畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)という場所に建てて、はじめて、御即位(ごそくい)の祭礼を行なわれました。
この年をわが国の紀元元年(きげんがんねん)とし、毎年二月十一日の紀元節(きげんせつ)は、このめでたい日にあたるので、国民は皆これを祝うことになりました。
天皇は、祖先に孝行をするお心がふかく、御先祖の神々を鳥見山(とみのやま)にお祀りになりました。このようにして、神武天皇は、天照大神がお定めになった日本の国の基礎をますます堅固なものにしてお隠れになりました。
そのお隠れになった日にあたって行われるお祭りは、毎年、四月三日の神武天皇祭となりました。


神武天皇御東征図
読むに値すると思われましたら周知にご協力くださいませんか。
何度でもありがたいです。
↓
© 2023 by Name of Site. Proudly created with Wix.com