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「序言」には、「満州事変」および「支那事変」があらわれます。
戦前の日本、あるいは三浦藤作の言い分に耳をかたむけてみましょう。
眼前にみていることさえ各人各様の言い分があります。ましてや、伝聞でしかない証言や、事実についてつなぎ合わせたものにしても、異なった結論がでてきて当たり前です
恣意的な見解を述べるなど簡単なことです。
まずは、日本の言い分を読むべきと思い、ここに引用しました。
 
                 満州事変の勃発
 
 支那においては、明治四十五年(一九一二年)清朝が滅びて共和国となり、国号を中華民国と称したが、その後、とかく国内の統一を欠き紛乱が相次ぎ、情勢が混沌として収まらず、常に在留邦人の安全を脅かしたのみならず、事毎に排日を企て、満州における我が権益さえも侵害しやまなかった(現地軍閥・張学良)。
 
 我が国は、あくまで隠忍して、しばしば隣邦に行為の反省を促したが、更にその効果なく昭和六年(一九三一年)、支那兵が我が南満州鉄道の線路を爆破するに到り、遂に我が軍(関東軍)は、自衛のために起こり、これを阻止しなければならなかった。九月十八日の夜のことであった。
 
 我が虎石台守備隊では、中隊長陸軍歩兵太尉・川島正が指揮者となり、文官駐屯地付近において夜間演習を行っていた。
 
 その南方にある王官駐屯地西側の南満州鉄道踏切は、事故の多い場所であったから、この夜も柳条湖分遣隊から潜伏斥候が配置してあった。
 
 巡察兵の動作を監察する任務を帯びて中隊付の陸軍歩兵中尉・河本末守が、伝令二名を従え奉天駅に向かって前進中、北大営の西南方約八百メートルの踏切付近に到った時、突如、後方煉瓦焼場の方向に、一大爆音が起こった。
 
 そこで、中尉は、斥候を呼び集め、その地点を探索すると煉瓦焼場の西側の鉄道線路が爆破せられていた。
 中尉がこれを詳細に調査しようとしていると、たちまち闇中から射撃した者があった。ただちに応射した中尉は、六、七名の支那正規兵が北方に遁走するのを認めて約百メートルほど追撃すると、右前方北大営と線路との間にある高梁畑の中から、猛烈な射撃を受けた。兵数は三、四百名ほどもあった。それが我が柳条湖分遣隊に向かう様子であったから、中尉は、急を中隊長に報告した。
 
 さきに爆音を聞くや、部下を率いて急行した中隊長・川島太尉は、途中にて河本中尉の報告に接し、銃声の方向に前進すると、北大営南方二百メートルを離れたと思う頃、高梁畑から猛烈な弾雨を浴びた。
 
 支那軍の攻撃を受けつつあることを悟った中隊長は、ついに断然これを撃破する決心をなし、戦闘を有利に導くために、北大営の一角を占領する必要を認め、わずかに百余名の部下を率い、一万余の支那軍の駐屯する北大営の攻撃を企てた。
 
 かくして、ここに日支両軍の開戦を見るに到ったのである。これを満州事変という。
 
 我が軍は、その翌日(九月十九日)奉天及び寛城子を占領し、二十日に撫順及び昌園を占領し、二十一日に吉林を占領した。
 
 中華民国政府は、十九日、事件の調停を国際連盟に依頼した(国際連盟日支紛争調査委員会調査団・リットン調査団)。
 
 国際連盟は、理事会を開いてこれ(リットン報告書)を討議し米国政府は、婉曲に撤兵を勧告せる対日通牒を発した。
 
 我が政府においては、満州に起これる事件が支那兵の不法行為に対する正当防衛なる旨を声明し、また既得権益擁護の外に領土的野心なきことを声明した

 国際連盟の常任理事国である日本は、この対日通牒に異議をとなえ、昭和八年三月二十七日に「国際連盟脱退に関する詔書」を渙発すると共に連盟を脱退した。
                                     現代語訳終
満州事変の勃発の真実(あるとすれば)は、どうであったのでしょうか。
リットン調査団の報告書は、信じられるのでしょうか。
恣意的なものが、得に国際連盟の意図するものが存在してもおかしくはないでしょう。
教科書で学ばされたものは、戦後の歪曲され押しつけられたものではないでしょうか。
歴史の真実は、覆い隠されていることが多くあることに、敗戦後洗脳された日本人は気をつけてみないといけないと思います。
                                        以上
 
​満州事変の勃発
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